• 香川妙美(萩出身ライター)

【萩ミライ探訪 #02】東京で働く経営者 Marketing-Robotics株式会社 田中亮大(たなか・りょうだい)さん・30代

最終更新: 2019年5月4日

萩で育ち、萩で学ぶ、中高生の皆さんへ。


 萩を離れ、東京で活躍する先輩が歩いてきた、人生のストーリーをたどってみませんか? 


 山陰の小さな町に生まれた私たちは当時、萩での暮らしの「その先」を知る機会は決して多くはありませんでした。それでも、将来を想像し、夢や目標を胸に萩から飛び出す人は、今も昔も絶えず存在しています。


 「萩ミライ探訪」は、皆さんよりも先に大人になった私たちからのささやかなギフトです。先輩たちの「人生」というストーリーが、あなたの将来を考えるヒントにつながることを願っています。


Produced by 萩大志館〜萩市出身者でつくる事業創造チーム〜

https://www.hagitaishikan.jp/



 

 第2回は、Marketing-Robotics株式会社(マーケティング-ロボティクス)を経営する、田中亮大さんに話を伺いました。


 萩を、さらには山口県を代表する若手起業家の田中さん。その注目度は、インターネット業界でも高く、今年はじめには「あなたの会社を応援したい」という複数の企業から5億円以上もの資金が集まりました。現在、この資金を基にビジネスをさらに加速させようと取り組みを続けています。


 そんな田中さんは、旧須佐町弥富の出身。中学生時代は、萩を出ることばかり考えていたと振り返りますが、30代半ばのいまは、ふるさと萩、そして弥富をまったく違う視点から見られるようになったと話します。仕事に打ち込んだ20代、会社を立ち上げ、自分の家族をつくった30代。節目ごとに変わっていく田中さんの価値観は、これからどこへと向かっていくのでしょう。





探訪ナビゲーター 香川妙美


越ケ浜→土原→大井で育つ。中学・高校と音楽にのめりこんだことをきっかけに、東京の専門学校に進学。音楽ビジネスを学ぶ。その後、音楽事務所、自動車関連の会社で働き、2013年からはフリーランスとして独り立ち。現在は、企業のPRのお手伝いやライター業を主な仕事にしつつ、その傍ら大学で学んでいます。萩の好きなスポットは、図書館。





AIを駆使したサービスで急成長中のベンチャー企業


―さっそくですが、田中さんってどんなお仕事をしているんですか?

 『KAIGAN(カイガン)』というマーケティングオートメーションシステムの開発・運営を行う会社を経営しています。分かりやすく言うと、お客さんを獲得したいと考える企業にシステムを販売している、といったところでしょうか。


―田中さん自らが会社を立ち上げたんですよね。つまりは社長さんですね。会社をつくろうと思ったきっかけは、何だったんですか?

 会社にとって、お客さんの情報はとても大切です。世の中にある会社はどこも、商品やサービスを買ってくれるお客さんがいるから商売が成り立っています。これは、現代に限ったことではありません。たとえば江戸時代にも『顧客台帳』と呼ばれるお客さんのリストがありました。これは火事になったら、いの一番に持ち出すほど大事なもの。お金は灰になっても台帳さえあれば、そこに載っているお客さんに営業して商品を買ってもらえるチャンスがある。つまり、新たなお金を生み出すことにつながります。だから、お客さんの情報は昔から大切に扱われてきたんですね。けれども、今も昔もすべての会社がお客さんの情報をうまく活用できているわけではありません。これって、とてももったいないことなんです。僕の会社はそこに着目し、活用するための仕組みをAI(人工知能)を使って整備しています。このシステムがあれば、たくさんの会社のビジネスを良いほうに導けるーー。そんな思いを持っています。



スポーツに打ち込んだ少年時代。夢は、野球選手。けれども……


―萩市の中学生の多くは、弥富が旧須佐町にあることまでは知っていても、具体的な場所をイメージできる人は少ないかもしれませんね。


 そうですね。「須佐」駅を基点にすると、そこから10キロくらい内陸に入ったエリアです。僕は、中学生までここで過ごしました。


―どんな子どもだったんですか?


同級生は10人いました。保育園からずっと一緒でしたが、一人で過ごすのが好きだったせいか、仲の良い友だちがいなくって。だから、一人で黙々とできるスポーツに没頭していました。


 小学校は、僕が5年生のときに複式学校になりました。勉強は楽しかったですよ。「6年生になったら、こういうのを習うんだ」って、いつもワクワクしていました。


 中学校では、野球部に入りました。1年生からレギュラーになり、先輩たちにはかわいがってもらいました。全校生徒が少ないので、夏の陸上大会にも駆り出されていたんですが、僕は県大会で入賞するほど足が速かったんです。陸上の強豪校から「高校はウチに来ないか」と誘われたりもしましたが、野球を続けたかったので萩高に進みました。この当時は、プロ野球選手になりたいと本気で思っていました。


中学生の頃。弁論大会に出場したときのひとコマ

―中学生のときには、すでに明確な目標があったんですね。

そうですね。プロ野球が無理なら社会人野球でもいい。台湾リーグでも韓国リーグでも構わない。そのくらいのめり込んでいました。僕、高校のデビュー戦で、初打席ホームランを打ったんです。それで、これからもっと頑張ろうって思っていました。けれども、その直後に腰を痛めてしまって。そこから1年半、リハビリ生活を送ることになりました。


―華々しいデビューを飾ったところから急展開ですね。田中さんとしては、ここが初めての挫折(ざせつ)になるんですか?


うーん。挫折と言えば、そうなんですが、もっと精神的な影響を受けたことを挙げると、高校生活そのものだった気がします。自分で言うのもはばかられるんですが、中学時代は勉強ができたんです。それから小さな集落なので周りからも大切にされて育ったんですよね。だけど、いい気になるんじゃなく、「お前は、井の中の蛙だ」って自分に言い聞かせてきました。ただ、萩高に進学すると自分の想定をはるかに超える社会が待っていました。


―大海はとんでもなく広い世界だった、ということですね。


 そうです。まず、校舎が3階建てで(笑)。それだけでも十分衝撃的でした。クラスも7組まであるし、男子も女子もあか抜けている。誰もが携帯電話を持っている。まるでドラマを見ているようでした。完全なる劣等感がありましたね。そういった急激な環境の変化についていけず、大きな反動が出てしまったんです。

―え、何が起きたんです?


「何をしたって周りにはかなわない」。そんなふうに受け止めてしまい、一切勉強をしなくなったんです。当然成績も下がるし、そこから生活態度にも影響が出て遅刻も増える。打ち込むはずの野球ができないことも含め、いろいろなことが思うようにいかず、常にもどかしさを感じていました。けれども、英語だけは唯一成績が落ちなかったんです。それで、大学は語学に強いところに進もうと考えていました。ただ、親からは「萩から近い大学に行ってほしい」と言われていたので、北九州にある大学に進みました。ここは、前身が外国語大学(語学に特化した大学)なんです。英語をしっかり学び、将来は世界を飛び回れる仕事をしようと思っていました。



高校の野球部の仲間と。真ん中が田中さん

就職、独立、そして起業。現在につながるビジネスが生まれた20代


―田中さんは、どんなことを考えながら将来を決め、その後の社会人人生を歩んできたのでしょうか?


 将来を本気で考え始めたのは、大学3年生になってからです。まずは、自分が得意なこと、興味のあることを掘り下げました。英語を活かせる仕事、スポーツに関わる仕事ってどんなのがあるんだろうって具合です。日本に留まりたくない気持ちは変わらず持っていたので、外交官や外資系企業(日本以外に本社を持つ会社)への就職も視野に入れていました。それから、母が養護学校の教諭をしていることもあり、子どものころからそこに通う子どもたちとよく遊んでいたんですよ。その経験から「僕と彼らって何が違うんだろう」という疑問が常にあって、人の脳のメカニズムやメンタルに関する興味も高かったんです。これらを掛け合わせていくうちに、MR(医師のもとを訪ね、医薬品の情報を提供する仕事)という職種に行きつきました。


 日本ではMRって、医師に薬を売り込む営業さんというイメージが強いと思うんですが、アメリカでは薬のプロフェッショナルとして見られ、医師と同じくらいの地位があるんです。そして給料もいい(笑)。結論、中枢神経系の医薬品に強みを持つ外資系製薬会社に就職しました。けれども、医師との関わりのなかでMRの仕事に限界を感じ、一年で辞めてしまいました。




ただ、お客さんとどんな姿勢で向き合うと良い仕事ができるのかは学べたので、その経験を活かし、外国の商品を日本に販売する仕事を一人で始めました。扱う商品はとても高額でした。値段が高い物ほど買う人は慎重になるし、初めて会った人から買おうとも思いません。僕は、相手を知ることが大事だと思い、いただいた名刺と同じサイズの紙にお客さんの情報をどんどん書き留めていきました。さらに、初対面の人は「C」、何度か連絡を取っている人は「B」、十分に打ち解けられた人は「A」のように、お客さんにランクを付けて管理していました。この人たちに3か月ごとに連絡を入れて、Aランクになったら初めて商品を紹介し、販売する。そんな仕事をしばらく続けていました。



―時間をかけながらお客さんとの関係性を築いていったんですね。雇われていた立場から、自分の腕一本で食べていくことになり、大変なことも多かったのではないですか?


 最初は全然売れなかったので、食べるのにも一苦労でした。八百屋さんでもらった傷んだ野菜やパン屋さんでもらったパンの耳をかじって過ごしていました。100円マックを食べ続けてじんましんが出たこともあります。今でこそ笑い話ですが、当時は過酷(かこく)な生活でしたね。

―けれども、このときのビジネスの経験が、いまのお仕事に脈々と続いているんですよね。


 そうですね。この仕組みがうまくいき、商品もコンスタンスに売れるようになりました。その後、就職した会社でも同じやり方が通用しました。ただ、世の中には営業が上手くいかない会社がまだまだたくさんあることにも気付きました。「困っているところに僕のノウハウを提供できないか」。そう考えたことが起業のきっかけになり、いまの仕事につながっています。


萩から出たいのなら、すぐにでも実行するといい


―ここまで田中さんの人生をたどってきたわけですが、こうして振り返るなか、一貫して持ち続けた思いはありましたか?


萩に留まりたくない気持ちはずっとありましたね。「この土地を守れ」「先祖代々の……」みたいな話が子どものころから嫌で。その反発心がプロ野球選手になりたい、外国で働きたいという思いをつくったように思います。


―そんな田中さんのように「萩から出たい」と思っている中学生って、絶対にいると思うんですよ。何て声をかけますか?


「1日も早く出たほうがいい」。


―ストレートに来ましたね。やはり、その気持ちを押すんですね。

 萩には、たくさんのチャンスがありますが、それらは萩を出て初めて気づくことのほうが多いと思うからです。けれども、これは「家出をしたら?」って言っているんじゃない。旅行でもいいんです。ただ、友だちと行くんじゃなくって、一人で行ったほうがいい。誰かと一緒だと、その人としか話さないから発展性が無いんです。「今日どこに泊まる?」って会話になっても、カプセルホテルやビジネスホテルを選ぶ場合がほとんどでしょう。でも、一人だと思わぬ出会いがあって、その人の家に一泊お世話になるかもしれない。それがありかなしかは別として、こういうシチュエーションになったら自分で考えて答えを出す必要がある。つまりは、知っている土地や人から離れることって、新しい価値や新しい自分に出会うことでもあるんですよね。そこに臆(おく)せず飛び込めるのなら、萩ではない場所での暮らしを経験してみるのもいいと思いますよ。

―自分を試すことは、その決意の強さを測ることにもなりそうですね。


そうですね。それがわずかな時間であっても、自分がどう生きていきたいのか、その答えを導くきっかけになると思います。





限界集落の期待の星に。弥富スマートシティ構想

―最後に田中さんの今後のビジョンを聞かせてください。


改めて萩っていい街だと思っています。子どもが生まれてからは、なおさらそう感じています。毎年、子どもと一緒に帰省し、お墓参りにも行くんですが、先代たちも自分が通った道をこんなふうに次代に引き継いだんだろうなって思いを馳(は)せています。だから、自分を育ててくれた弥富に感謝したいし、この郷土愛をカタチにしたい。いま考えているのは、弥富をスマートシティにすること。既に試算を始めるほど、本気で検討しています。

―街づくりですか! それは壮大ですね。


 弥富は萩石見空港へのアクセスが抜群なんです。萩市街までは車で1時間かかるけれど、弥富は20分。この地の利を活かさない手はありません。インフラ、医療、教育、この三つを整えられれば、若い世代も移住しやすくなる。弥富から空港まで直線で道路を敷くのもいいですね。


―宇部興産の専用道路みたいに……


そうそう。それも完全なる自動運転で。土地代は別として、設備にかかるお金はそう大きくなくできると思っています。


 地方創生と言われて久しいですが、どの地域も観光資源を活かすことが、その答えだと思っているように感じます。だからホテルを建て観光客を誘致しようと躍起(やっき)になっている。けれど、それで成功している自治体はほんのわずかです。僕は、違う切り口で地方創生に挑戦したい。それがスマートシティ構想です。ビジネスとして成り立つことを証明できれば、支援企業も出てくることでしょう。これを実現できれば、弥富は日本に無数にある限界集落の期待の星になれる。弥富から日本を元気にする。それが僕を育ててくれた弥富、そして萩への恩返しになると思っています。



お子さんとのフォト。今年3月には女の子が誕生。二児のパパに


 「萩の外に出たい」。少年だった田中さんのこの思いは、巡り巡って萩へと帰ってきました。いま、萩の外に可能性を感じているあなたにも、いつかは萩への思いの丈を語れる人になってほしい。田中さんのお話には、そんな思いが含まれているかのような情熱がありました。



萩の好きな場所

・高校時代の下宿先

 自宅から萩高まで片道2時間近くかかることから、平安古にある下宿先から通っていました。いまでも帰省すると、お世話になったおばさんに子どもを連れて会いに行っています。


・畳ケ淵

 山口県自然百選にも選ばれている畳ケ淵は、僕の実家から3キロくらい。子どもの頃はよく自転車で出かけていました。東京では感じられない荘厳さがあり、いまでも帰省すると足を運びたくなります。



Markething Robotics株式会社

https://marketing-robotics.com/


【萩大志館】萩市出身者でつくる事業創造チーム

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【東京遊学ツアー】 by萩大志館&NTAトラベル

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