萩で育ち、萩で学ぶ、中高生の皆さんへ。
萩を離れ、東京で活躍する先輩が歩いてきた、人生のストーリーをたどってみませんか?
山陰の小さな町に生まれた私たちは当時、萩での暮らしの「その先」を知る機会は決して多くはありませんでした。それでも、将来を想像し、夢や目標を胸に萩から飛び出す人は、今も昔も絶えず存在しています。
「萩ミライ探訪」は、皆さんよりも先に大人になった私たちからのささやかなギフトです。先輩たちの「人生」というストーリーが、あなたの将来を考えるヒントにつながることを願っています。
第1回は、あらゆるエンタテインメントを手がけている、株式会社ロボットでクリエイティブディレクターとして働く、古谷憲史さんに話を伺いました。
古谷さんは、大井出身。萩高卒業後は、福岡の大学に進学するものの、2年生のときに中退を選択し、今の仕事につながる道を歩きはじめます。その当時、古谷さんは何を考え、どう行動したのでしょうか。その原点になったと振り返る少年時代の経験、萩を担う「若き志士」である皆さんへのメッセージもあわせてお届けします。
探訪ナビゲーター 香川妙美
越ケ浜→土原→大井で育つ。中学・高校と音楽にのめりこんだことをきっかけに、東京の専門学校に進学。音楽ビジネスを学ぶ。その後、音楽事務所、自動車関連の会社で働き、2013年からはフリーランスとして独り立ち。現在は、企業のPRのお手伝いやライター業を主な仕事にしつつ、その傍ら大学で学んでいます。萩の好きなスポットは、図書館。
クリエイティブディレクターって、どんな仕事?
―まず、クリエイティブディレクターのお仕事内容から聞かせてください。
企業や個人の持つ課題を見つけ、アイデアを考え、実行することで解決する仕事です。
解決方法はいくつもあるんですが、その手法を分かりやすく言うと、テレビコマーシャルなどの映像制作、ウェブサイトやスマホアプリなどの制作、ポスターやチラシの制作といった感じです。
直近で僕が担当した仕事を挙げると、TV局のプロモーションムービー、映像コミュニケーション企業のブランドムービー、エンタテインメント施設のオープンキャンペーン、地方の伝統文化の活性化キャンペーンなど。みんなの身近なところだと、昨年は「モスバーガー」のテレビコマーシャルも僕が制作に携わりました。
―古谷さんの仕事って、何をきっかけにスタートするんですか?
まずは企業の相談を受けることから始まります。どの企業も「新しい商品をPRしたい」「お客さんに自分のところの商品をもっと好きになってもらいたい」といった思いを持っていますが、どこに課題があるのか分からなかったり、悩んだりしています。それらを叶えるのが僕らの役目です。
具体的には、どんなテーマやイメージを発信するとお客さんが興味を持ってくれるのか、これらを最も効果的に伝えるにはテレビコマーシャルを流すのが良いのか、イベントを開催するのが良いのか等を決定し、実行します。そうやって決めたことがブレないように管理するのもクリエイティブディレクターの役割です。
仕事のなかには、商品パッケージを制作したり、キャラクターデザインを手がけたりというのもありますよ。これらも「誰に、どんなイメージを伝えたい」という企業の思いに耳を傾け、形にするという点では同じですね。
―普段、何となく見ているテレビコマーシャルやポスターのなかに古谷さんが担当したものがあると考えると、とても身近な仕事に感じますね。ところで、古谷さんは社会に出たときからクリエイティブディレクターとしてお仕事をしているのでしょうか?
さまざまなことを手掛けるようになったのはここ数年です。それまではポスターや新聞広告など、いわゆる『紙媒体』と呼ばれるものを担当することが多かったですね。もともとグラフィックデザイナーとして働きはじめたこともあり、デザインを起点に仕事の幅を広げてきました。
―では、職場も何度か変わっているということですか?
そうですね。最初はデザイン事務所に入社しました。その時に知り合った先輩たちとその後会社を立ち上げ、そこでも3年半ほどデザイナーをしていたのですが、だんだんみんなのやりたいことがバラバラになってきたので、会社を解散しました。そのあとに、自分の能力をさらに活かせる場所を探して入ったのが今の会社。ロボットではすでに11年働いています。
何となく進学した大学で、何となくじゃだめなことに気づいた
―デザインの仕事に就くと決めたのは、いつ頃ですか?
僕はとても遅かったんですよ。高校生の頃はラグビーに明け暮れていたので、進路はさほど真剣に考えていなくって。大学も萩から遠すぎず近すぎず、自分の学力で入れるというだけで決めましたが、当時はそこに迷いはありませんでした。
でも、入学して1年が経ったころに「このままでも十分楽しいんだけど、このままでいいのかな?」って考え始めたんです。同級生や先輩のなかには、目的を持って学んでいる人がたくさんいるのに、自分ははっきりとしたものがないなあという感覚がありました。
それで、まず自分は何がしたいのかを考えようと思い、本屋に通うようになりました。当時は、インターネットがまだ普及していなかったので、情報を得るには本屋に行くのが一番だったんですよ。そこで、いろいろな雑誌を手に取るなか、『デザインの現場』という雑誌に出合ったんです。それを見たときに、自分が子どものころから絵を描くのが得意だったことを思い出しました。「あっ、これだ!」って手ごたえを感じました。
―古谷さんは、絵が得意だったんですね。だんだんデザインの仕事に近づいてきました。
僕が小学生のころは、図工の時間に読書感想画などを描く授業があってね、上手に描けた人の絵は、さらに仕上げてコンクールに出すという流れがあったんです。
―ありましたね。母の日に描いたお母さんの絵が、アトラスで一斉に展示されたりもしましたね。
そうそう。僕はよく学校代表に選ばれて市や県で入選していたんです。すると、「自分って絵が得意なんだ」って、子どもなりに思うようになるんですよね。あとは、兄の影響も大きくて。兄も絵が上手かったんですよ。それの真似をして僕もよく描いていました。マンガの主人公とかね。すると、上級生に「お前、うまいな。もっと描いてみろよ」って言われるわけですよ。すると嬉しくなって、さらに頑張って描いたり。そういう積み重ねのおかげで、絵が得意になり、好きと思うようになりました。
―子どもの頃の体験が、『デザインの現場』を手に取ることでよみがえってきたんですね。
ええ。自分の進む道はこっちかもなあって思い始めました。とはいえ、今から美術大学を受けるのも大変だし、学費もかかるので親に相談する必要もあります。それで、またどうしようかと1年くらい考えつつ、そのあいだに大学や専門学校のパンフレットを取り寄せたりもして、情報とにらめっこをしていました。
ようやく親に話せたのは、大学2年生の後半に差しかかってから。「残り2年、大学で学ぶ代わりに、専門学校に通わせてほしい」とお願いしました。親は渋々ながらも許してくれたので大学を中退し、翌年から美術系の専門学校に進学するため上京しました。その後の進路は先ほど話したとおりです。
―古谷さんにとっては、ここが人生の大きな分かれ道になったんですね。
そうですね。大学を辞めたことへの後悔はありませんでしたが、進路を決めるのに回り道をしてしまったので、周りに迷惑をかけたという反省はあります。
東京の学校を選んだのは、先端で仕事をするなら首都に行くのが一番と考えたことも理由ですが、「もう後戻りできない」という覚悟を持ったことも大きかったです。
高校生の頃は、自分の将来と自分のやりたいことがつながっていませんでした。けれども、そこへのアンテナを早く立てられる人ほど最短距離で目標に進むことができます。僕は、周りの友人を見ても思ったし、自分の経験からもそう実感しています。
大井で過ごした少年時代が、将来の礎(いしずえ)を築いた
―ところで、古谷さんはどんな子どもだったんですか?
保育園から中学校まで、ずっと大井で育ちました。同級生は48人だったかな? 2クラスありました。とにかく身体を動かすことが好きで、小学生のときはスポ少で野球をやっていて、中学でも野球部に入っていました。
うちは父親が漁師でね、普段は東北地方まで漁に出ていたので家にはあまりいなかったんだけど、下関で水揚げをして帰宅するときには、毎回『博多の女』をお土産に買ってきてくれたのが思い出です。なので、家庭を切り盛りしていたのは母親。姉と兄の3人きょうだいで育ちました。
―高校の進路を萩高に決めたのはなぜですか?
進学をするのなら萩高に進むのがよいだろうという考えを持っていました。母親も大学進学まで見通していたみたいですね。わりと教育熱心だったので、塾をはじめ学んだり体験したりすることには、理解のある家庭でした。
―そういった点も含め、子どもの頃は家族の影響って大きいですよね。
そうですね。我が家の場合、「やりたい」と言ったことに、母はできうる限り応援してくれましたね。そうそう、小6のときには、『少年の船』(現:少年少女の船)にも参加しました。宇部を出発して本州を一周して帰ってくるというアレです。そこで知り合った人とチームを組んで、寄港先でいろいろな体験をするわけですが、いまでも印象に残っています。
決して裕福な家庭ではなかったので参加費もなんとか工面してくれたんだと思います。そうやって日常とは違う経験をすることの価値を、母は大切にしていたように思います。
だから、子どもの立場としては、「こんなことを言うと親を困らせてしまうかな」「きっと無理って言われるだろうなあ」って自分のなかで片づけるのではなく、自分の気持ちや願望を口にすることはとても大事だと思いますよ。
―そこが、将来を考えるヒントになりえるということですね。ほかにも大人になった今だからこそ意味があったと気づける、少年時代のエピソードってありますか?
我が家はクリスチャンなんですよ。それで、小学生の頃は日曜になると土原の教会までミサに通っていたんですが、僕はあまり乗り気じゃなくってね。渋々行っていたところもあったんですが、当時、大井にはウチみたいな家庭が無かったので、「人とは違うポイントが自分のなかにある」という感覚がちょっと誇らしくもありましたね。それが、「自分にしかできない何かがあるはず」「人とは違う何かがしたい」と思う原動力になり、今につながる道が開けたようにも思います。
何かを始めたいと思うきっかけは、
必ず自分の中にある
―古谷さんが絵や野球、ラグビーに打ち込んだように、また自分ならではの特別な体験を持っているというように、好きなことや得意なこと、大切にしていることがあればあるほど、進路を具体的に、さらには自分らしく考えられる力になりそうですね。
たとえ得意なことや頑張ったことが実を結ばなかったとしても、「これをやりきった、続けてきた」という実感を持てる人は、新しいチャレンジに対しても自信を持って取り組めると思います。そのためにもまずは一つでいいので、自分の<核>になるものを絶対に持ったほうがいい。そのうえで、色々なことに興味を持つ姿勢を大切にしてほしいですね。なぜなら、選択肢を多く持つことは、とても良いことだから。
10代前半のうちから見つけるのは難しいことだけど、興味のきっかけは外ではなく必ず自分の中にあるので、ぜひ見つけることをおすすめします。そこを始点に「学べる場所はどこだろう」「活かせる仕事は何だろう」ってどんどん関連付けていくと、今まで見逃していたことや知らなかったことにも気づきが生まれるはず。はっきりとしたものが見えていない状態であっても順序立てて考えることは、自分の進路を導く近道になると思います。
「出身は萩です」は、萩の外で生きる僕の強力な武器
―ところで、古谷さんが萩を思い出すときって、どんなタイミングですか?
萩市出身と周りに話すと、「修学旅行で行ったことがあります」「明治維新発祥の地ですね」というように話が広がることがとても多く、そのたびに萩のすごさを感じています。そのくらい多くの人が萩のことを知っているんですよ。皆さんも萩出身であることにぜひ誇りを持ってください。
あとは、東京に住んでいると、きれいな砂浜で海を見る機会ってまずないんです。お台場というフジテレビのあるエリアに人工砂浜があったりもするんだけど、なんにも感じない。でも、仕事や旅行で地方に出かけてきれいな砂浜を見ると、菊が浜や自分が子どもの頃に泳いだ大井の松原を思い出します。これは、僕の原風景かもしれないですね。
―古谷さんは、これまで「着物ウィークin萩」のポスターや萩博物館のポスターを手がける等、萩市の取り組みをサポートされていますが、今後はどういった立場で萩と向き合いたいと考えていますか?
最近は、自分の能力や価値を上げていくことで貢献していきたいと考えるようになりました。
ゆくゆくは、自分のクリエイティブディレクターとしての実績を、萩市に必要としてもらえる存在になっていきたいですね。
少年時代の一つひとつの経験が、いまにつながっていると話す古谷さん。
将来とはつながっていないように思える、いまのその体験が、古谷さんのように何かをきっかけに開花するかもしれません。
つい使ってしまう方言
ビジネスの場では頑張って標準語を使っていますが、同僚や後輩と話していると、つい語尾が「~んよねえ」ってなりますね。あと、いまだにイントネーションを注意されます。こればっかりは、直しようがないんですけどね……
萩の好きな場所
石彫公園の奥の海
夕日がきれいに沈む絶景のスポットです。
子どもの頃に走り回った家の裏の鵜山(うやま)
だんだん畑にミカンがなっているんですが、あの迷路じみた道には思い出が詰まっています。
萩ツインシネマ
萩に古びた映画館があるという風景が好きです。飲み屋さんやパチンコ店が連ねるなかでポツンとある感じが。いまでも萩に帰ったらよく足を運んでいます。
株式会社ロボット
萩大志館&NTAトラベル 東京遊学ツアー
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